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自業自得(じごうじとく)

得てして悪いことが起こった時に使われますが、本来は悪い事、善い事両方の意味を持っています。
身体で行ったこと、言葉を発したこと、心に思ったことはすべてその人に返ってきて、未来に影響を及ぼすということです。また、その未来の影響(結果)はその本人が受けねばなりません。
他人の悪口を言ったこと、他人の不幸を喜んだことなどの悪業(あくごう)は自分に跳ね返ってくるのです。誰かを嫌うと大概その人も自分の事を嫌っています。誰かの悪口を言った後はいやな気持ちだけが残ります。
一番わかりやすいのが暴力ではないでしょうか。人をたたくと、たたかれた相手も痛いでしょうが、たたいた自分の手も痛いはずです。悪業は、未来に決して良い影響は与えません。
2020年には東京で開催されるオリンピック。メダルを手にする選手の皆さんの口から出てくる言葉は、支えてくれた方や応援してくれた方への感謝の言葉です。私たちは頑張る姿に感動し応援し、選手の皆さんに感謝します。これもまた、善い意味での自業自得ではないかと思います。
応援してくれる方へ、支えて指導してくれる方へ、家族へ少しでも恩返しになるのならともうひと頑張りする力はこの自業自得が与えてくれているのかもしれません。

挨拶(あいさつ)

挨拶の語源は「一挨一拶」(いちあいいっさつ)という仏教のことばです。
修行僧が師と、あるいは修行僧同士が問答を交わしてその力量を計ることを言います。
挨は「押す」拶は「近づく」という意味を持っています。
一般にいうところの挨拶にも深い、そして大切な役割があります。全く知らない間柄であっても一言の挨拶によってぐっと距離が近づきます。知り合い同士であれば当たり前のように当たり前の挨拶を交わすことが、その交友関係を円滑にし、継続させます。
武道の「礼」なども挨拶の一つですね。礼の仕方一つでも伝わるものがあります。やっぱりきちんと礼をする方は競技においても強いような気がします。
何気ない挨拶の一言が、個人、家族、企業ひいては国の評価へとつながっているといえます。皆さんも経験がありませんか。気持ちの良い挨拶で、その相手に更に好感を持ったこと。逆にぶっきらぼうな気持ちのこもらない挨拶で、その相手の印象が変わったこと。本人の意図しないところで、挨拶が相手の琴線にふれたり、逆に逆鱗にふれたり…。
あなたの一言の挨拶が、こんなにも相手に響いているということ、自分も含めたその背景にあるものの評価に影響を与えているということを忘れないようにしたいものです。

有難う(ありがとう)

〜盲亀浮木の譬(もうきふぼくのたとえ)〜
お釈迦様が阿難(あなん)というお弟子さんに尋ねます。
「あなたは人間に生まれたことをどのように思っていますか?」
「はい、とても喜んでおります」阿難は答えます。
「では、どのくらい喜んでいますか?」
お釈迦様の再びの問いに阿難は答えが見つかりませんでした。
すると、お釈迦様は次のような例え話をされました。
「果てしなく広がる大海の底に目の見えない亀がいる。その亀は100年に1度だけ海面に顔を出すのだ。その海には1本の浮木があり、波に流され、風に流され漂っている。その浮木の真ん中に一つの穴がある。その目の見えない亀が100年に1度海面に顔を出した時に丁度その浮木の穴に頭を入れることがあるだろうか?」
阿難は驚いて「そんなこと、とてもあるとは思えません」
「絶対にないと言い切れますか?」お釈迦様が念を押されると
「何億年、何兆年もの永い間には、たまたまあるかもしれませんが、ないに等しいくらい難しいことです」と阿難は答えます。
そこでお釈迦様は「私たちが人間に生まれることはこの例えよりもあり得ない程難しい事なのです。それほど有難い事なのです」と教えられています。
「有難う」とは有ることが難しい、稀であるということから出た言葉です。人間に生まれるということはそれほど難しいことなのです。他人から何かしてもらうことはめったにない、有難いことなのだということから「有難い」「有難う(ありがとう)」となりました。
有難い人間として私たちは生まれました。この時代、この国、この地に、この家族の元に生まれたということは有難いことです。そのことに気付いたら、自然と誰かに何かに「ありがとう」と言いたくなってきませんか?
ちょっとしたことにも「ありがとう」と言ってみてはいかがでしょうか。

お彼岸(おひがん)

改めて説明するまでもなく、お彼岸といえばご先祖様のご供養ですが、ご供養のことではないお彼岸にまつわるお話です。
【ぼたもち/おはぎ】
ご存知の方も多いかと思いますが、「ぼたもち」と「おはぎ」は同じものです。が、ぼたもちは春のものでこしあん、おはぎは秋のものでつぶあんというのが元々の名称の違いです。
春に咲く牡丹、秋に咲く萩が名前の由来です。
そもそも「ぼたもち」「おはぎ」をお彼岸に食べる習慣が始まったのは江戸時代にさかのぼるそうです。小豆の赤色には魔除けの効果があると信じられており、古くから邪気を払う食べ物としての信仰が先祖の供養と結びついたと言われています。また、砂糖が貴重だったこの時代、「ぼたもち」「おはぎ」は滅多に口にできないごちそうでした。そのため大切な来客やお祝いなどでふるまわれ、ご先祖様のご供養である法要でもお供えされ、この時期に食べるようになったようです。
【彼岸花/曼珠沙華/ヒガンバナ】
秋の花として親しまれる彼岸花。「リコリス」「曼珠沙華」とも呼ばれています。
赤い彼岸花が一般的ですが、白、ピンク、黄色などもあります。
日本ではどちらかというと彼岸花は不吉なイメージの方が強いようです。それは「彼岸花を家に持ち帰ると火事になる」「彼岸花を摘むと死人が出る」などといった、いくつかの恐ろしい迷信があるためです。これらは花色や花の姿が炎を連想させることと、彼岸花が持つ毒によるものとされています。
また、彼岸花は花が咲いた後に葉が伸び、秋に咲いて春に枯れるという通常の草花とは逆の生態を持っています。その葉と花を一緒に見ることがないことから昔の人は恐れをなして死人花(しびとばな)や地獄花(じごくばな)などと呼ぶこともありました。
しかし、「曼珠沙華」はサンスクリット語で「天上に咲く花」の意味があり「おめでたいことが起こる兆しに天から赤い花が降ってくる」という仏教の経典から来ています。日本の迷信とは全く逆ですね。

夏越の祓え(なごしのはらえ)

神道において、罪、穢れや厄災などの不浄を取り除くための神事を大祓(おおはらえ)といいます。
その中で、6月30日に行われるのが夏越の祓(なごしのはらえ)です。
厳しい夏を乗り越え、残り半年を無事に過ごせるよう、心身を清め、健やかな気持ちに立ち返るため、「茅の輪(ちのわ)」くぐりと「形代(かたしろ)」納めが行われます。
神前に直径2mほどもある大きな茅萱(ちがや)で作った輪(これを茅の輪といいます)が設けられ、これをくぐって厄払いし、無病息災を願います。
「水無月(みなづき)の夏越(なごし)の祓(はらえ)する人は 千歳(ちとせ)の命 延(の)ぶというなり」と古歌を唱えつつ、左、右、左と八の字を描くように三度くぐり抜けます。
この茅の輪の由来はスサノオノミコトにまつわる故事からきています。旅の途中で、お世話になった方に、腰に茅の輪をつけると厄災から守ってくれると教えたところ、その方は恐ろしい疫病から逃れることができたといわれています。昔は神話通りに腰に付けていた小さな茅の輪が、江戸時代から現代の大きな茅の輪をくぐるものに変わっていきました。
また、人の形に切り取った紙に自分の名前や年齢を書いた「形代(かたしろ)」 で自分の体の悪い所などをなで、息を吹きかけることで自分の罪や穢れが形代に乗り移り、それを海や川などに流すことで人々を清めてくれるといわれています。これも夏越の祓のひとつです。
そして、欠かせないものがもうひとつ、「水無月(みなづき)」という和菓子です。水無月は白い外郎(ういろう)生地に小豆をのせた三角形のこの季節ならではのお菓子です。三角形は「氷室(ひむろ)」の氷を表し、上に乗った小豆は邪気払いの意味を持ちます。氷室とは冬の氷を夏まで保存しておく場所で、氷室の氷を口にすると夏バテしないと言われていたようですが、庶民にとっては高根の花。そこで、氷をかたどったこの涼菓が作られるようになったようです。
6月30日は神社ヘ赴き、茅の輪をくぐり、形代で罪穢れを清め、そして水無月を口にする。いにしえの日本に思いを馳せながら過ごしてみるのも一興です。

※全ての神社が「夏越の祓」を行ってはおりませんので、参詣の際は必ずご確認ください。

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